私は観客、つまり作品を観覧する人々が作品を鑑賞する際、単に作家の意図を把握しようとする受動的な態度から離れて社会的、文化的な先入見なくそれぞれの観客自分の立場から能動的に作品の意味を把握し,作品読みに参与するように努力している。私の作品を観る事にあって、観覧客が作家の意図に畏敬の念を持ち、作家の深遠な自我について客観的な探究をすべきだと考えることは無意味な事である。作品は作家によって定義つけられ、完結されるのではなく観客の積極的な反応と心理的な参与によりその存立根拠を得るのである。
私の作品は過去の美術に対する反動や反逆から始まったものではない。おそらく多くの過去の作品から非常に複雑な影響を受けたものだと思う。
素材にあっては漫画と文字、大衆媒体など一見無意味だと考えられてきた、美術の領域で他者化されて来たものを選択して来たのであり、そのような素材から派生された重層的な意味らに注目してきた。
この様な作業は「創造者としての芸術家」に対する問題提起であり、単一の意味体系を整えた作品ではなく作品を囲んだ外部的な要因との密接な関連の中でその意味が流動する作品を念頭に置いている。同時代的な意味で作家とは作品を絶対的に支配し、運用する存在ではなく作品の一部としてある機能しているのである。ある面でこれは多くの部分、作家から作品へのその比重が移っていく事であるが、勿論その時の作品とは絶対的で固有な意味体系を持った作品であるか自己反映的、又は自己規定的な物品としての作品であるより、外部世界との数多くの関係の中で位置している作品をいう。
では作家と言う存在は消滅するものであるか。作家が完全に消滅できなければ作家はどんな機能をするのだろう。それに対した解答は現在の作家として探究すべきの一つの領域である。作家は作品の一部で存在しながら、作品と観客、そして外部世界との間でそれらが互いに、ある反応が起こすことにあって、まるで触媒剤の様に作用する。
同時に作家は自分のアイデンティティーについて、そして自身の周りについて自ら穿鑿するる。
私の作業はそのすべての質問と答え、そして現像の間で形成されているのである。
イ.ドンギ